2016年11月1日火曜日

私の子育て論

今日はものすごく良い機会を頂いたので、この興奮が冷めやらぬうちに記事を書こうと思います。

野井慎吾先生の講演会
「あそびが育む幼児のこころとからだ」

おやこ劇場の会報のなかにさらっと入っていたちらしだったのですが、このテーマを見て「あっこれ、ちょっと興味あるな」と思ったのと、ばっちり前後の予定もなく空いていたのでこれは今聞けるチャンスだな!と感じて申し込んでみました。
それほど、期待もせず劇場のお仲間も何人かご一緒だったのでなんの身構えもせず聞けた講演会、それがものすごく今の自分がまさに感じていたことにヒットしたので、どうしてもこの気持ちをシェアしたくて書きはじめてます。

私自身は二人姉妹で姉とは容姿も性格も正反対で高校時代からはお互いに寮生活をしていたこともあって、少しは気の合う部分もあったけれどじっくり話す間もなくお互いに家庭をもったりで姉妹を語る時間なんてほとんどなく、それってすごく寂しいなって思ったので、自分はできるならば3人は子育てがしてみたいという強い願いもあって3人目まではがむしゃらに突っ走って子育てしちゃったなと今になるとそう振り返るのですが、まさか5人ものお母さんになれるとは夢にも思っていなかったことと思う反面、自分の潜在意識のなかでは、こどもがありのままに生きる姿に自分をどれだけ映し出せるかそんな思いを巡らせていたような気もするのです。

それは、大人になって自分がいろいろなことにブレーキをかけて、こうしてはダメこう思ってはダメ、こうするべき、ああするべき、そういうお堅い人間で長い間どうしても自分の本心を追求することに恐怖を感じていたのだけど、5人目のヒロトが生まれて12歳離れる長女の思春期と、まだ言えば乳幼児のこころの発達を同時に見ることができる環境に置かれて、改めて感じていることは「ありのままの姿」ほど面白いことはなく、人間が成長し発達して行く上でいろいろな抑制をかけるのは本当に大人の(わたしの)エゴだなって気がつきました。
そんなことを曖昧なところで気がつきながらも、はっきりとした確信も持たなかったので家族内に小さなトラブルが起きると子供や夫、親のせいにしてどこか違うところに逃げ道を作ったり自分は関係ないと身を隠すようなずるいことを長くやってきました。

ちょっとお話ズレてしまったのだけど、今日のお話の中ですごく印象に残ったのは「一見意味のないような戯れ付きあそびやこどものいたづら、ダイナミックな活動や相反するように見える静かなあそび(おままごとやお絵描きなど)はすべて人間が成長して行く上で個々が欲している発達欲求である」というお話でした。
そう、こどもって(特に小さいうち)意味もないようなこと平気でおもしろそーにやっているし、思いも及ばないようないたづらが大好きだし、言葉はままならなくともちゃんと体で表現するし、ほんとにストレートでありのまんまで生きるエネルギーに満ちていて素晴らしい生き物だよねって。それ、すごく大事だよね、って感じてはいるけれど、じゃあいざ成長する過程で「あそび」を意識してみると、今のご時世それがなかなかできない環境下にこどもを置いていることがあるということに気がつく親は多くはないのでしょうか?もちろん自分自身のことも含めて。
ここで言いたい「あそび」はゲームやスマートフォンなどのSNSとは懸け離れた自らが主体性を持った「あそび」のことです。

小さい頃から習い事詰めだったり、早期幼児教育だったり、学校へ行けばそれもっともっと勉強だ!塾だ!英才教育だ!と詰め込んで、さらにもっと大きくなればもっとまともな人間になりなさい、やりなさい、もっともっととどこまで追い詰めれば自分の気が済むのかというところまで。(あああ、決して私の周りがそんな人ばっかりというわけではなくそんな人も居るというくらいに受け止めてください)

でも、そんなことより、お日様が出たら ああ今日はお天気が良いのだな、元気がでるなって朝が気持ち良く起きれて、昼間もお天道様の光を浴びながら元気に活動できて、夜はお日様が沈めば電気もそこそこにあしたへの活力を貯める準備をするといった、いわば人間らしい暮らしをした方が人は本来の自分の在り方に気がつけるのではないかなと。

ちょっと長くなったので、一旦休みます。
続きは次へ







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